毛利勝永

【元ネタ】史実
【CLASS】セイバー
【マスター】
【真名】毛利勝永
【性別】男性
【身長・体重】165cm・68kg
【属性】秩序・善
【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷B 魔力E 幸運E 宝具D
【クラス別スキル】
騎乗:B
 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、
 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。

対魔力:C
 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。
 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。

【保有スキル】
軍略:A
 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。
 自らの対軍宝具や対城宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具、対城宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。

勇猛:B
 威圧・混乱・幻惑といった精神干渉を無効化する能力。
 また、格闘ダメージを向上させる効果もある。

一気呵成:C
 攻撃すればするほど勢いを増す。ターン経過毎に命中率が増していくスキル。

仕切り直し:C
 戦闘から離脱する能力。
 また、不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。

【宝具】
『策阻む濃霧』
ランク:D 種別:対軍宝具 レンジ:1-40 最大捕捉:100人
 道明時の戦いにおいて、友軍への救援が遅れた原因となった濃霧と、献策を悉く聞き入れてもらえず、
 苦戦を強いられたという不運が合わさったミックス宝具。セイバーを中心として、広範囲に濃霧を展開する。
 この濃霧内にいる全てのサーヴァントの幸運値を、その間だけEに固定する。
 また、五感による認知を妨害する効果があり、高いランクの察知系スキルが無ければ、敵味方の識別も難しく満足に行動できなくなる。
 セイバー自身はどこに誰がいるかを瞬時に理解することができるため、妨害工作や撤退時に有利な補正を加えることができる。
 あくまで霧であるため、強風などで霧を晴らすことが可能。
 ただし、濃霧の展開は即座に行われるため、払われても瞬時に濃霧へと戻すことができる。 

『携わりし単騎駆け』
ランク:E 種別:対人宝具 レンジ:1-20 最大捕捉:13人
 真田幸村が大阪夏の陣において、徳川本陣を突き抜け家康の眼前まで迫ったという真田単騎駆け。
 それと同じだけの偉業を果たしたセイバーの逸話の再現。ただし、その偉業が真田幸村単独のものとみなされがちであるためランクは低い。
 一気呵成が発動しているときに、追随して発動される。
 宝具が発動している間、魔力と幸運を除くステータスと、全てのスキルランクをワンランク引き上げる。
 更に、少数対多数の不利な境遇において戦闘に有利な幸運を得られることがある。
 ただし、『策阻む濃霧』と同時に発動することはできず、『策阻む濃霧』を発動した場合この宝具の発動はキャンセルされる。

【Weapon】
「無銘・日本刀」

【解説】
 天正5年(1577年)、毛利勝永は豊臣秀吉の家臣、毛利勝信の子として生まれた。
 天正15年に勝信は豊前国小倉にて6万石(一説では10万石とも)、勝永は1万石(4万石とも)を与えられた際に、秀吉の計らいでそれまでの森氏を毛利に改めている。
 慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍し慶長の役で、蔚山倭城に攻寄せた明・朝鮮連合軍撃退に戦功を立てた。
 関ヶ原の戦いでは西軍として参戦、九州に下向した父に代わり中央で軍勢を色紙、伏見城の戦いで格別な戦功を上げ、3000石の加増を受けるが、多くの家臣を失った。
 毛利輝元家臣とともに安国寺恵瓊の指揮下に置かれたが、安濃津城攻撃や関ヶ原本戦での活躍の場はない。
 戦後、黒田如水に小倉城を奪われたことで改易となり、加藤清正、山内一豊に身柄を預けられる。
 その際山内家では1千石の封知をあてがわれるなど、厚遇を受ける。
 慶長5年(1614年)豊臣秀頼の招きを受け、土佐から脱出。彼の長男も脱走したが、妻と娘、次男の鶴千代は城内に軟禁される。
 大阪城に入城した勝永は、信望を得て大阪城の五人衆と称される。
 冬の陣において、真田信繁らと共に出撃策を唱えたが容れてもらえず、篭城戦で西丸ノ西・今橋を防衛。
 夏の陣では、道明寺の戦いで敗れた後藤基次らの敗残兵を収容、藤井寺に布陣の後自ら殿を務め、真田らの軍勢の退却の後撤退に成功する。
 天王寺口の戦いでは、兵4千を率いて徳川家康本陣の正面に布陣、戦いが始まるや本多忠朝、小笠原秀政を打ち取り、
 榊原康勝、酒井家次、本多忠純、浅野長重ら多くの部隊を次々に撃破、家康の本陣に突入する大活躍を見せる。
 しかし真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方からの攻撃を受け撤退。退却においても藤堂高虎隊を撃破、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防ぎ切り、城内に撤収した。
 その最期は、主である秀頼の介錯を行い、息子と弟と共に切腹した。
 戦後家康は、次男太郎兵衛(鶴千代)を斬首したが、妻と娘の命は奪わなかった。
 これについては、以下の逸話が有名であろう。
 土佐脱出前、勝永は妻子に対して、大恩ある豊臣家、秀頼公のために一命を捧げたいが、残したお前たちに難儀がかかるだろうと嘆き、涙する。
 それに対し妻は、「君の御為の働き、家の名誉です。残るものが心配ならば、わたくしたちはこの島の波に沈み一命を立ちましょう」と励ました。
 これを聞いた家康は、勇士の志を褒め、妻子を罪に問うなと命じ、城内へ招かれ保護された。
 これだけの武勇を示した武人でありながら、真田信繁が有名すぎたために後世に名をあまり見かけることがない。
 しかし江戸時代中期の文人・神沢杜口(かんざわ とこう)は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで毛利勝永の活躍を賞賛し
 「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と記している。
 また、大阪城の戦いを見聞した宣教師もまた、優れた指揮官として真田と勝永を褒め称えている。

【コメント】
 すごい活躍をしたというのに、真田信繁にそれを持って行かれてしまった不運な武将。
 おそらく影の薄い人なのだろう。知っている人は知ってる的な、通好みの。最初はアサシンで考えていたが、悩んだ末にセイバーに。
 そのため、セイバーにしては微妙なスペックの持ち主。それもこれも全て真田信繁が(ry
 道明寺の戦いでは濃霧のため救援が間に合わず、後藤基次ら名のある武将が討ち死に、それを恥じた真田信繁が豊臣の命運が尽きたと思い、死を覚悟した。
 それを止めたのが勝永であり、ここで死んでも益がない。ならば右府(秀頼公)様の馬前で華々しく散ろうではないかと慰めたという。
 その結果徳川本陣大混乱。徳川四天王の子供は涙目である。
 ちなみに彼の奥方は龍造寺政家の娘であるが、名前は残されていない。おそらくそれを聖杯の望みとして召喚されたと妄想。
 一歩引いて夫を支えるのがその時代の一般的な奥方の考え方なのだが、流石にそこまでしてくれた妻の名が全く残らないのは不本意であろう。
 妻はそう考えていないだろうが。という妄想。
 有利な相手、逆に正面からでは絶対勝てない相手には濃霧でアサシンプレイ。
 逆に不利な相手、複数を相手取るときは正面から戦うという王道プレイ。二つの戦略からお選びいただけます。

  • 最終更新:2015-10-31 22:27:16

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