呂蒙 子明

【元ネタ】三国志
【CLASS】バーサーカー
【マスター】
【真名】呂蒙 子明
【性別】男性
【身長・体重】189cm・84kg
【属性】混沌・悪(正しくは秩序・善)
【ステータス】筋力A 耐久B 敏捷C 魔力B 幸運E 宝具B
【クラス別スキル】
狂化:C
 敏捷と幸運を除いたパラメーターをランクアップさせるが、
 言語能力を失い、複雑な思考が出来なくなる。

【固有スキル】
ラーニング:B
 自らの不足を補わんとする学習意欲。
 戦闘終了後、相手の持つ技術スキルを一定確率で会得する。
 だが、現在は狂化の影響で機能していない。

無辜の怪物:A+
 関羽を討った卑劣な将。
 関羽という大英雄が神格化された結果の、“陰の側面”。
 能力、思想、人格が変貌してしまう。
 ちなみに、このスキルは外せない。

【宝具】
『関帝呪怨・黒色死血(ツゥチャオシエ・グァンユー)』
ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1~20 最大捕捉:10人
 呂蒙の総身に流れる呪いの血。
 関帝聖君の呪詛によって、呂蒙の血液には悪竜の因子が強制的に付加されている。
 この血液は外気に触れることで“狂気”と“不毛”の概念が表面化し、
 呂蒙を含む、触れた者や土地の龍脈に、呪詛によるダメージを与える。
 また、この呪詛を常に味わい続けていた呂蒙は、本能的にこの血液を“御す”術を会得しており、
 凝固させて武器や鎧として、傷口から高速噴射してウォータージェットとして運用することもできる。
 この宝具の使用にはMPではなくHPを消費し、真名解放分と合わせて二重にダメージを受けるため、ある意味燃費がかなり悪い。

【解説】
 三国時代の孫呉に仕えた武将。
 若いころは知性面でやや弱い猛将であったが、孫権によって諭された結果猛勉強をし、
 魯粛らを驚かせるほどの知性を身に付ける。
 周瑜、魯粛の跡を継いで大都督となったのちは兵たちに慕われながらも厳格な統率を敷き、
 軍律にそむいた者は同郷であろうと斬り、義に準じない行動を取った甘寧と同志討ち寸前のところまで対立したこともあった。
 樊城攻めによって于禁を降伏させて間もなかった関羽を捕らえ、処刑した逸話は非常に有名であり、
 それから間もなく病没したために、後年の創作に於いては関羽の呪詛によって殺されたと脚色された。
 NHKで放映された人形劇三国志での非常識過ぎる改悪振りは、
 客観的に物ごとを見れる人に限り必見である。




【元ネタ】三国志 三国志演義
【CLASS】セイバー
【マスター】
【真名】呂蒙 子明
【性別】男性
【身長・体重】171cm・70kg
【属性】中立・中庸
【ステータス】筋力B 耐久B 敏捷B 魔力C 幸運C 宝具B
【クラス別スキル】
対魔力:C
 二工程以下の詠唱による魔術を無効化する。
 大魔術、儀礼呪法等、大がかりな魔術は防げない。

騎乗:B
 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、
 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。

【固有スキル】
軍略:C
 一対一の戦闘ではなく、多人数を動員した戦場における戦術的直感力。
 自らの対軍宝具の行使や、逆に相手の対軍宝具に対処する場合に有利な補正が与えられる。

心眼(真):B
 修行・鍛錬によって培った洞察力。
 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、その場で残された活路を導き出す“戦闘論理”
 逆転の可能性が1%でもあるのなら、その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。

【宝具】
『非復阿蒙(し、わかれてみっかなれば)』
ランク:B 種別:対人(自身)宝具 レンジ:0 最大捕捉:1人
 相対した人物と別れた後、その人物が保有していたスキル1つを習得する宝具。
 習得したスキルは1日目はEランクだが、2日目にはCランクに成長し、3日目にはAランクとなって完成する。
 また、獲得したスキルや対象者の特性に応じて、セイバー自身の肉体・精神が変容し、ステータスの上下や宝具の獲得も起こりうる。
 ……対象によっては、自身の肉体が変容に耐え切れずに自壊したり、相手の精神性に自身の人格を乗っ取られる危険性がある。

【Weapon】
『柳葉刀』
 刀身が細長く湾曲した刀。柄頭には刀彩と呼ばれる布切れがついている。
 宴の席で、甘寧・凌統が互いに武器を手に舞い始め、互いの命を狙った際、
 呂蒙は刀と楯を手に、両者の間に割り込んで舞うことで事なきを得たという。

『彭排』
 木ないし竹で作られた中国の盾。呂蒙が用いるのは鉄で補強して強度を上げたタイプ。
 長柄武器(矛や戟など)が主流であった三国時代に置いて、一般的な防具は鎧であったが、
 船上では構造物の所為で狭いため長柄武器が機能せず、鎧も船から落ちた際に溺死してしまう危険性があった。
 このため水上戦では長柄武器や鎧は用いられず、刀と盾が用いられたという。

【解説】
 後漢末期、三国時代の武将。字は子明。
 孫呉の名将の一人として名を馳せる一方、長じて後は学問に励むことで国士と呼ばれるまでに成長。
『万人敵』と渾名される蜀の名将・関羽を策略によって討ち取り、荊州を手に入れる大功を挙げた。


 15、16の頃に貧窮の身の上を嫌い、孫策配下の軍隊に入ったが、若年であることを侮辱され続けたことに逆上し、上司を斬り殺してしまう。
 しかし、面会した孫策が器量を評価したことで罪を許され、側近として取り立てられ、立身出世の糸口を掴んだ。

 孫策が暗殺され、孫権が後継者となった後も武勇と策略によって軍功を挙げ続けていたが、次第にその出世も頭打ちになる。
 呂蒙はあくまで武略一辺倒の人物であり、当時の士大夫が備えておくべき教養を身に着けていなかったのである。
 しかし、決して頭の働きが鈍いわけではなかったため、孫権の説得を受けて学問に励んだ後には、儒学者顔負けの教養人へと成長。
 その学識は「呉下の阿蒙に非ず」と魯粛に言わしめるほどであり、諸将の人望を集める国士として盤石の地位を築いた。

荊州の支配権を巡って劉備と孫権の同盟関係が崩壊し始めると、
 呂蒙は劉備の股肱の臣である関羽を討ち、荊州を孫呉の支配下に置くために策略を練り始める。
 詐病によって敵を油断させた呂蒙は、関羽の北上に乗じて調略と進軍を開始し、電撃的に荊州を奪還。
 さらに、北上が失敗し敗走した関羽を追撃し、これを討つことにも成功した。

(……ちなみに関羽軍が“湘関”で孫権軍の兵糧を奪ったことが開戦の大義となっているが、胡三省によれば“湘関”は“零陵”に属する。
“零陵”は関羽と魯粛の会談によって蜀の側に属することが決められている)

 これらの大功によって孫権の呂蒙に対する信頼は絶対的なものとなるが、まもなく病死し孫権を嘆かせた。
 なお呂蒙自身は自らの後継者に朱然を推していたが、夷陵の戦いで活躍した陸遜が後継者となった。

 三国志演義においては関羽を討つことに成功するまでは同じだが、
 怨霊と化した関羽に憑依され、宴の席で「我こそは関雲長なり!」と絶叫し、身体中の穴から血を吹き出して死ぬ、という描写となっている。

  • 最終更新:2016-01-18 03:04:14

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